究極という場所である。
もう先がないと言うことは、まだまだ先があるということであり、もう過ぎたことと言えば、まだすぎていないと言うことであり、全てに有無がないところであり、現実の中に生きているも、真如の中に生きていることもなく、又現実に生きていて真如の中に生きている状態に達しているのである。
ここは、唯識において語るには、とてもさわやかで清らかな場所であるので、識もなく、識もあると言える場所である。
従って唯識という言葉も、論も存在しないし、又存在する場所であるので、唯識論で述べる事もでき、又述べることもないところである。
唯識論と唯心論が最終的に異なるところは、ここだけである。
唯心論は識(心の作用)こそがこの世界の全てであると考えている。
唯識論はこの識でさえも存在もせず、又存在しないこともないという完全無垢な世界を説いている。般若心経に通じる部分である。