飛び交う唯識のはかない情報

メールでその日の唯識に関する記事が、私の手元にURLを羅列し、その要約を記載して届きます。
どれを見ても、解釈がどうだとか、流派はどうだとか、どのような歴史だとか、難しい言葉を連ねて、いとも学問の高尚さを醸し出すような、自己陶酔的な感じを受けるばかりです。

唯識論は、普通に生きる人たちが、毎日の生活の中で自分は何をしているのか、何を考えているのか、またそれはなぜか?人間とは何だろう?なぜ、さっき心もなく冷たい態度をしてしまったんだろう等々、こんなところに生かされるものなのです。

それにもかかわらず、あまりにも難しい言葉に固執して、それを現実的に整合させることをしないで、ただその解釈を述べ続ける唯識学にはあきれ果てるばかりです。

一応全て読みますが、私に届く唯識に関する情報は、どれもどこかの本に書いていることを紹介しているものばかりで、すでに読み尽くしたことの人の解釈を聞いているばかりです。

大事なことは、唯識は当たり前のことしか書いていないのであるから、五位の修行にあるように,それをどのようにして普通に生きる人たちの日常生活に生かしていくことができるかを、行動学的に考えることです。

そのような情報は100くる情報の内、ほんの1ぐらいしか有りません。最近は読むことも全て斜め読みにしています。ぱっと見れば何を書いているかわかるぐらい味気ないものです。

唯識学者の話も、僧侶の話も同じです。

この素晴らしい唯識学を,実践的に、人々の自然な自己の発見に生かして行く。そして多くの人が、いつもあたりまえに楽しく生きていく姿を見て楽しむ。これが私の楽しみです。

唯識の探求 -読書ノート-: 水を掬う

唯識の思想と道教の思想・そして太極拳などなどに連なる普遍性を探る。

【仏教聖典より】

『すべてのものは互いに関係して成り立ち、互いによりあって存在するものであり、ひとりで成り立つものではない。 ちょうど、光と影、長さと短さ、白と黒のようなもので、それ自体の本質が、ただひとりであり得るものではないから無自性という。。』

ここでも縁起の思想が述べられている。自他不二の思想は老子道教、K.Wilber無境界にも出てきたと思う。『無自性』は“non-subustantial”と訳されている、substanceは実体。従って、無実体ということになって、文脈での意味とは多少異なって来るような気がする。

引用元: 唯識の探求 -読書ノート-: 水を掬う.

失敗する原因

はじめに–「私たちが失敗する原因は全て余計な考え事。とりわけネガティブな考え事です。」と月読寺の住職、小池竜之介氏が書いた本「考えない練習」の冒頭に書かれています。

まず、思考停止を薦める本。なるほど宗教らしいなと思います。

本には「思考さえストップすることができると、自らの心を思いどおりに操縦しやすくなります」と書いています。

思考をストップするのは簡単です。誰かの言うことを信じてしまえば良いのです。その答えが間違っていようが、正しかろうが、えらい人が書いた言葉を鵜呑みにして、信じれば良いのです。

これ以上考える必要はありません。多くの人が宗教を信じる理由です。

思考停止された人は自分では考えることをしません。

自らの深くにある自分を知ろうともしません。

本には「思考を停止した後に、クリアな思考が生まれる」とも書いています。どうも違和感があります。

なぜなら、思考を開始すると、今までと同じように思考はめまぐるしく動き出すはずです。

この本の中の同じ場所でも「思考は暴走する」と書いているのに、クリアな思考が生まれると書いているのです。

クリアな思考って何でしょうか?これが多くの人が煙に巻かれる魔法の言葉です。

よくわかりませんが、唯識では思考は行動と同じ行(ぎょう)です。思考は、言葉に表すのと同じです。
そのクリアな言葉や思考とは何でしょうか?

少なくとも思考を停止した後に、その思考を動き出した瞬間にクリアになっているはずがありません。

唯識が考える思考は、清らかな自分が選択する自然な思考です。
思考を止めどなくできる、又、それに囚われることのない自由な思考です。

この本の中で、「人間の脳はやっかいで、いつまでも考えを止めることができないやくざなもの」としています。

そのとおりです。だから人間なのです。しかし、やくざなものだから思考を止める?
まるで麻薬や覚醒剤を、お酒を飲んで思考を止めるのと同じです。その場は思考が止まったようでも、結局思考が始まると考え出します。それは当たり前です。

この本のように思考を止めて、その後から思考がクリアになるというなら、お酒を飲んで思考が完全に止まったべろんべろんの翌日は、まるで思考がクリアですということになります。本当にばかげています。

人は当たり前に思考して、思い切り興味のあることに思いを巡らせて生きていければ良いのです。お酒を飲んだり、麻薬をしたり、人の考えに盲進したりして思考を止めなくても良いのです。いつまで思考を止めたければ意識をなくせば良いのです。そんな馬鹿なことはないでしょう。

思考を止める練習なんてする必要はありません。思考は生まれては消え、生まれては消える無常のものです。仏教はそう教えています。思考は人間として当たり前です。

その思考の源を見つけ、自分の中の何がそのような思考をさせているのか、そしてそのような思考をすることがない方が良ければ、その源を探して行けば、きっとクリア(唯識で言う清らかな)思考をする深い自分が見つかるはずです。

その深い自分が見つかれば、いつまでも清らかな思考で、思い切り人生を楽しんでいけば良いのです。

冒頭から、何か人間自体を小さな箱に閉じ込めるような、囚われ人にするような書き出しです。

このように、良い研究材料があるので、今後、この宗教家が書いた本を題材にして発言をしていきたいと思います。

七慢

慢は、思い上がりの心。それを七つに分けたものが「七慢」

慢とは、他と比較しておごり高ぶること。
過慢とは、自分と同等の人に対し、自分の方が上だと思うこと。
慢過慢とは、自分より優れた者に対し、自分の方がもっと上だと思い誤ること。
増上慢とは、悟りの域に達していないのに、既に悟っているという自惚れの心。
我慢とは、自分に執着することから起こる慢心のこと。
卑慢とは、はるかに優れた者と比較し、自分は少ししか劣っていないと思うこと。
邪慢とは、間違った行いをしても、正しいことをしたと言い張ること。

<修習位>の代表的な修行は、<十波羅蜜〔じっぱらみつ〕>の十項目である。

1) 布施〔ふせ〕…恵みを施し、互いに分かち合うこと。
(a) 菩薩の布施は「三輪清浄」である。布施の根元に利己生が超越されているため、施者・受者・施物に何のこだわりもない。
2) 持戒〔じかい〕…規律ある生活。自制心・自己抑制力。
3) 忍辱〔にんにく〕…耐えること。忍耐・我慢・辛抱。
4) 精進〔しょうじん〕…努力。
5) 禅定〔ぜんじょう〕…精神の統一。
6) 般若〔はんにゃ〕…根本智の修行。
7) 方便〔ほうべん〕…衆生済度の様々の方便をめぐらす。
8) 願〔がん〕…衆生済度の誓願。
9) 力〔りき〕…現実の是非・正邪を判断する力と、修行を継続する力を養う。
10) 智〔ち〕…後得智の修行。
v. <修習位>の修行は、真理によって高められ深められていく。
vi. 己を超えたものによって、己が清められていく。(無)
vii. 宗教的な言い方をすれば、如来に導かれての修行である。
viii. 煩悩浄化の図
1) <十波羅蜜>の修行により、煩悩が漸次力を失っていく。
2) 人間そのもの、生命そのものは煩悩でも善でもない。人間が生きていること自体に善悪はない。
3) <現行><種子><習気〔じっけ〕>は煩悩の状態の分類である。
(a) <現行>は、煩悩が実際に働いている状態。
(b) <種子>は、煩悩の潜勢態。
(c) <習気>は、種子の持つ雰囲気、残り香。
(d) <現行>を抑えることを<伏〔ぶく〕>、<種子>の無くなることを<断>、<習気>の消えることを<捨>という。
4) 修行の要は、自覚のできる<第六意識>である。

五位の修行 第四位 修習位〔しゅじゅうい〕

i. <修習位>とは、矛盾した自分に立ち向かう修行の段階である。
ii. <通達位>で親証した<空>の自覚を、繰り返し深めていく。
iii. <修習位>は、菩薩の<十地〔じゅうじ〕>の段階でもある。
1) 極喜地〔ごっきぢ〕…真如と一体の体験を初めてした時の無上の喜びの境位。
2) 離垢地〔りくぢ〕…汚れが離れる段階。
3) 発光地〔ほっこうぢ〕…智慧の光が輝き始める段階。
4) 焔慧地〔えんねぢ〕…智慧が焔となる段階。聖なるものに対してさえも、愛著を否定する。
5) 極難勝地〔ごくなんしょうぢ〕…<真如>を証する根本智と、世俗の智とが、真に綜合統一される段階。
6) 現前地〔げんぜんぢ〕…無分別の最勝の智慧が現前する。
7) 遠行地〔おんぎょうぢ〕…<現前地>で現前した最勝の無分別智が、更に極め尽くされる段階。
8) 不動地〔ふどうぢ〕…真如と一体となった生活が、何の努力もせず自然に続き、二度と変わることはない境地。
9) 善慧地〔ぜんねぢ〕…仏の教えの言葉や意義を自在に理解体得し、自由自在にそれを人に説くことが出来る段階。
10) 法雲地〔ほううんぢ〕…衆生の煩悩を滅除し、衆生の善根を生育させる。智慧の完成。

不定

i. <不定〔ふじょう〕>とは、「善悪どちらにも固定していない(善にも悪にも働く)」という意味。
ii. <悪作><睡眠><尋><伺>の四つに分類される。
iii. <悪作〔おさ〕>とは
1) よろずのことを悔しむ心、後悔すること。
2) <悪作=悔>が昇華すれば、懺悔につながる。
iv. <睡眠〔すいめん〕>とは
1) 眠くて意識の朦朧とした状態のこと。
v. <尋〔じん〕>、<伺〔し〕>とは
1) 両者とも、ものごとを推し量る推理力のこと。
2) 細かく分けると、浅い→<尋>、深い→<伺>。
3) 唯識では対象を知るのに、直感的な認識(現量)と、推理による認識(比量)の二つの方法がある。<尋><伺>は、後者である。

随煩悩

i. 根本煩悩に付随して起きる煩悩のこと。細やかにも激しくも動く。
ii. <小随煩悩><中随煩悩><大随煩悩>の三郡に分類される。
iii. <小随煩悩>
1) 各別に強い性格を持っており、不善そのものとして働く心作用のこと。他の煩悩との共通点は小さい。
2) <小随煩悩>は、十ある。
3) <忿〔ふん〕>とは
(a) 怒りの爆発のこと。
(b) 根本煩悩は<瞋>である。
4) <恨〔こん〕>とは
(a) 恨みのこと。(心でくすぶり続けているだけ。陰湿)抑圧によって起こる。
(b) 根本煩悩は<瞋>である。
5) <覆〔ふく〕>とは
(a) 自分の悪を覆い隠すこと。
(b) 根本煩悩は<貪・むさぼり><癡・おろかさ>である。
6) <悩〔のう〕>とは
(a) 悩むこと。どうにもならないことを考えること。
(b) 根本煩悩は<瞋>である。
7) <嫉〔しつ〕>とは
(a) 嫉妬すること。
(b) 根本煩悩は<瞋>である。
8) <慳〔けん〕>とは
(a) 物惜しみすること。けち根性。
(b) 根本煩悩は<貪・むさぼり>である。
9) <おう>とは
(a) 相手の心を乱し、たぶらかすこと。
(b) ありのままの自分を妨げ、実物以上の自分を見せびらかそうとすること。
(c) 根本煩悩は<貪><癡>である。
10) <諂〔てん〕>とは
(a) 相手を自分のほうに向けさせようとして、心にも無いことを言ったりしたりすること。
(b) 根本煩悩は<貪><癡>である。
11) <害〔がい〕>とは
(a) 人の哀しみが分からないこと。→人の心が分からない。
(b) 根本煩悩は<瞋>である。
12) <憍〔きょう〕>とは
(a) 自分をおごり高ぶること。
(b) <憍>と<慢>はよく似ているが、<慢>は他人と自分を比較して高慢になることで、<憍>は他との比較の意識は少なく、自分を自慢し思い上がること。
(c) 根本煩悩は<貪・むさぼり>である。
iv. <中随煩悩>
1) <小随>の心所である、不善の<こころ>の働きの根底に、常時見られる心作用のこと。
2) <中随煩悩>は、<無慚><無愧>の二つがある。
3) <無慚〔むざん〕>とは
(a) 真理に対しても良心に対しての羞恥心がないこと。
(b) ⇔<慚>内面的な羞恥心
4) <無愧〔むき〕>とは
(a) 世間体も人のことも気にしない心作用のこと。
(b) 底に自我中心・利己性があり、己の汚れを自覚しない。
(c) ⇔<愧>世間をはばかり、人目を恥じる
5) 恥とは、自分を省みること。
6) <無慚><無愧>は、自分を振り返り、省みることを忘れた心所である。
v. <大随煩悩>
1) 「染心(不善、悪心、有覆無記)」に働く心作用のこと。
2) 八つに分類される。
3) <掉挙〔じょうこ〕>とは
(a) こころのたかぶりのこと。「頭にきた」
(b) 内面的に平静な状態を失う。
4) <惛沈〔こんぢん〕>とは
(a) こころが沈んでしまうこと。
(b) 内面的に平静な状態を失う。
5) <不信〔ふしん〕>とは
(a) 不信感を抱くこと。相互の関係は完全に遮断される。
6) <懈怠〔けだい〕>とは
(a) 善い事、為すことを怠けていること。(積極的)
7) <放逸〔ほういつ〕>とは
(a) 善悪の判断も行動もだらしないこと。(消極的)
8) <失念〔しつねん〕>とは
(a) 念ずることを失っている。仏陀の教えや真理への志向を忘れること。(命を大事にしていない)
(b) ⇔<正念〔しょうねん〕>
9) <散乱〔さんらん〕>とは
(a) 心が定まらないこと。
(b) 対象への移り気があり、落ち着きの無い状態。
(c) 内面的に平静な状態を失う
10) <不正知〔ふしょうち〕>とは
(a) 誰にでも分かるはずの道理が分からないこと。
(b) <無常><無我>あるいは<空>の自己が会得できないこと。
(c) <不正知>の自覚は、<正知>を得ることのみ。
11) 正知・正見を得れば、煩悩はすべて崩れる。(特に分別起の煩悩)
12) 正知・正見が得られないから、我見・辺見・邪見などが我が物顔に活動する。
vi. 「煩い悩む」ことは、悪ではない。
vii. 自分の煩悩を自覚し、己への省察を深めていくことが大事である。
viii. 「人の心、もとより善悪なし。善悪は縁に随っておこる」道元禅師
                      『正法眼蔵随聞記』より

i. <善>とは、私たちがどのように生きればよいのかを、心作用の面から答えようとする心所のこと。
ii. <善>の心所は、十一に分析される(信、慚、愧、無貪、無瞋、無癡、勤、軽安、不放逸、行捨、不害)。
iii. 唯識での<善>は、「私という個の存在をたすけ、私を幸せにしてくれるもの」ということ。
iv. <信〔しん〕>とは
1) 澄み切った清き<こころ>のこと。
2) 認識という知的要素を含むもの。
3) <信>=<知(認識)>は、インドの代表的な<信>の定義。
4) 知・情・意の全体を包み込んだ、全人格的な清浄である。
5) 真の<信>とは、「仏(如来)と我と一体」「信じる主体と信じられる対象とが一体」にある。
6) 自分が何か別のものを信じることではなく、自分自身の存在を信じ、引き受け、頂戴する。→仏凡一体の境地
7) 真の<信>に開眼し、その真理を深く明晰に認識することに、深い<信>がある。
8) 人間の認識は全能ではないが、認識を離れて<信>はない。つまり、「人間認識の限界」と「それを超えたもの」とが交錯し出会う一点が<信>である。
v. <慚〔ざん〕>とは
1) 内面的(自分の良心、真理、正義)な恥の自覚。
2) 『大乗荘厳経論』には「慚ある者は不退なり。退は羞恥すべきが故なり。」とある。それは、自分に恥じることを知る者は後退することはないということ。後退に勝る恥はないし、後退は自己によってのみ自覚されるものだからである。
3) <こころ>の底に言い訳をする自己防衛の自我があると、そこに<慚>はない。<慚>は自己防衛本能が砕かれたところにある。
vi. <愧〔き〕>とは
1) 外界(人と人)との関係に依存した恥の自覚。(世間体など)
2) ベネディクトは『菊と刀』で、日本人の倫理の基盤は人目を気にすることで、それは内面性を伴わない程度の低い倫理だと批判している。
vii. <慚〔ざん〕>と<愧〔き〕>
1) <慚>があれば必ず<愧>もある。しかしその逆はそうとは限らない。故に、<慚>がもっとも大切である。
2) <慚><愧>は、深まって<懺悔>になる。本当にはじるには、<我>の粉砕が必要である。
viii. <無貪〔むとん〕><無瞋〔むしん〕><無癡〔むち〕>の<三善根>とは
1) <三善根〔さんぜんこん〕>は三大煩悩の反対で、<我>に基づかない。
2) <無貪>とは、本当の自分以外のものは自分のものではないと自覚し、「むさぼりのない」こと。
3) <無瞋>とは、気に入らないことがあっても腹を立てず、気まま(自我)な怒りをもたないこと。
4) <無癡>とは、ものの道理に明るい理解を持つこと。愚かでないこと。
ix. <勤〔ごん〕>とは
1) 善の真理の向かって進む<こころ>のすがたのこと。(心の精進)
x. <軽安〔きょうあん〕>とは
1) 修行に打ち込んでいるときの、軽やかな<こころ>の状態のこと。
xi. <不放逸〔ふほういつ〕>とは
1) 自分の好みや考えにとらわれず、自分を戒めながら善(本当の自分)に向かって進んでいくこと。=<精進><三善根>
xii. <行捨〔ぎょうしゃ〕>とは
1) 好き嫌いを離れた平静な境地のこと。(すべて捨てる)
2) 真の<善>は、無功用にあり自然にある。=無条件の愛
xiii. <不害〔ふがい〕>とは
1) 相手を傷つけず、相手への思いを忘れないこと(対立しないで融和すること)。=無条件の愛
2) 慈悲とは、無瞋と不害のこと。(慈=無瞋、悲=不害)
xiv. <善>のまとめ
1) <善>には、<有漏善>と<無漏善>がある。
2) <有漏><無漏>の違いは、利己性があるかどうか。
3) 凡夫の善は、わが身のためにする<有漏善>に過ぎない。
4) 仏・菩薩は、<我>を超えて<平等性智>の末那識に転じるため、<無漏善>になる。