はじめに–「私たちが失敗する原因は全て余計な考え事。とりわけネガティブな考え事です。」と月読寺の住職、小池竜之介氏が書いた本「考えない練習」の冒頭に書かれています。
まず、思考停止を薦める本。なるほど宗教らしいなと思います。
本には「思考さえストップすることができると、自らの心を思いどおりに操縦しやすくなります」と書いています。
思考をストップするのは簡単です。誰かの言うことを信じてしまえば良いのです。その答えが間違っていようが、正しかろうが、えらい人が書いた言葉を鵜呑みにして、信じれば良いのです。
これ以上考える必要はありません。多くの人が宗教を信じる理由です。
思考停止された人は自分では考えることをしません。
自らの深くにある自分を知ろうともしません。
本には「思考を停止した後に、クリアな思考が生まれる」とも書いています。どうも違和感があります。
なぜなら、思考を開始すると、今までと同じように思考はめまぐるしく動き出すはずです。
この本の中の同じ場所でも「思考は暴走する」と書いているのに、クリアな思考が生まれると書いているのです。
クリアな思考って何でしょうか?これが多くの人が煙に巻かれる魔法の言葉です。
よくわかりませんが、唯識では思考は行動と同じ行(ぎょう)です。思考は、言葉に表すのと同じです。
そのクリアな言葉や思考とは何でしょうか?
少なくとも思考を停止した後に、その思考を動き出した瞬間にクリアになっているはずがありません。
唯識が考える思考は、清らかな自分が選択する自然な思考です。
思考を止めどなくできる、又、それに囚われることのない自由な思考です。
この本の中で、「人間の脳はやっかいで、いつまでも考えを止めることができないやくざなもの」としています。
そのとおりです。だから人間なのです。しかし、やくざなものだから思考を止める?
まるで麻薬や覚醒剤を、お酒を飲んで思考を止めるのと同じです。その場は思考が止まったようでも、結局思考が始まると考え出します。それは当たり前です。
この本のように思考を止めて、その後から思考がクリアになるというなら、お酒を飲んで思考が完全に止まったべろんべろんの翌日は、まるで思考がクリアですということになります。本当にばかげています。
人は当たり前に思考して、思い切り興味のあることに思いを巡らせて生きていければ良いのです。お酒を飲んだり、麻薬をしたり、人の考えに盲進したりして思考を止めなくても良いのです。いつまで思考を止めたければ意識をなくせば良いのです。そんな馬鹿なことはないでしょう。
思考を止める練習なんてする必要はありません。思考は生まれては消え、生まれては消える無常のものです。仏教はそう教えています。思考は人間として当たり前です。
その思考の源を見つけ、自分の中の何がそのような思考をさせているのか、そしてそのような思考をすることがない方が良ければ、その源を探して行けば、きっとクリア(唯識で言う清らかな)思考をする深い自分が見つかるはずです。
その深い自分が見つかれば、いつまでも清らかな思考で、思い切り人生を楽しんでいけば良いのです。
冒頭から、何か人間自体を小さな箱に閉じ込めるような、囚われ人にするような書き出しです。
このように、良い研究材料があるので、今後、この宗教家が書いた本を題材にして発言をしていきたいと思います。