i. <遍行>と同性質と考えられていたが、徐々に区別され、<別所>の五心所(欲、勝懈、念、定、慧)に分類された。
ii. 前五識、第六意識と共働するが、<慧>のみは、第七末那識とも共働する。
iii. 五心所それぞれ対象が異なり、そのときに応じて単独で、二あるいは五全部が働く。
1) <欲>→<所楽の境>=ねがわしい対象
2) <勝解>→<決定の境>=確定的な対象
3) <念>→<曾習の境>=以前に経験したこと
4) <定><慧>→<所観の境>=深い智慧で捉えた対象
iv. <欲〔よく〕>とは
1) 自分が知りたいと思う何かを知ろうとするときの一番基底の働き。
2) 「精進」の原動力になる。
3) <別境>の欲は、第六意識でコントロール可能。
4) 貪欲⇔善法欲
5) <無欲>とは、欲に拘束されないこと。精進努力して到達すべきところ。
6) 放棄するのではなく、「捨てて捨てない、捨てないで捨てる」というのがよい。
v. <勝解〔しょうげ〕>とは
1) 対象を明確に判断すること。
2) 認識に確実性が増すが、認識が固定化されぬよう気をつける。
vi. <念〔ねん〕>とは
1) 過去の経験や記憶を忘れない心作用のこと。
2) 善悪いずれにも働き、善→<正念>、煩悩→<失念>と呼ぶ。
3) 深層にまで届く記憶をいう。
4) 「明記不忘」とは、はっきり記憶して忘れぬこと。
5) 「短い時間」という意味もある。=刹那
(a) 「阿弥陀如来を一心不乱に信じる刹那の心が、往生浄土の原因となる」=
<一念業成〔いちねんごうじょう〕>
(b) 「ひとつの思いの中に宇宙のすべてが含まれる」=<一念三千>
vii. <定〔じょう〕>とは
1) <こころ>の集中のこと。
2) 日常生活で見られる<生得定>と、生まれながらに持っている性質を磨き上げ練り上げていく<修得定>がある。
3) 別の呼び名として、<禅定><静慮><三昧><止><心一境性>がある。
viii. <慧〔え〕>とは
1) 是非善悪をえらび分けること。=簡択断疑〔けんじゃくだんぎ〕
2) えらび分ける段階を<慧>、はっきり決断する段階を<智>という。
3) <聞・思・修の三慧>
(a) <聞慧〔もんえ〕>とは、仏陀の教えを聞くことによって会得する簡択の力のこと。
(b) <思慧〔しえ〕>とは、思索することにより得られた簡択の力のこと。
(c) <修慧〔しゅえ〕>とは、実践によって自得した簡択力のこと。
4) 簡択の眼力が、その人の生涯を決めていく。
5) 慧眼を磨き、慧力を養うことが、<定>を練ることと一体になり、修行の肝心要となる。
ix. <別境>のまとめ
1) <別境>の五心所は、すべて善悪どちらにも働く。
2) <別境>は、善の方向へと向かって説かれている。→<欲>を「勤の依」、<定>を「智の依」としている。
3) <勤〔ごん〕>=<精進>
4) 悟りを開くと、五心所が、末那識・阿頼耶識とも共働する。
5) 悟りを開くと、末那識・阿頼耶識どちらも<善>の性質になる。
心所有法(六位五十一の心所)
a. 唯識は<こころ>を<心王>と<心所有法しんじょうほう>の二つに分ける。
b. <心王>は「心の主体」の面、<心所有法>は「こころの働き」「心理作用」の面である。
c. <心所有法>とは
i. <こころ>の探求といえる。
ii. 人間の<こころ>の実態を細かに分析する心理分析でもある。
iii. 「心に所有されるもの」「心に属するもの」という意味。
iv. <心王>と和合して離れないもの=<相応法>
d. <十二縁起>とは
i. 瞑想によって観ぜられた真理のこと。
ii. 生老死の苦悩の根源を掘り下げていき、十二の段階(老死・生・有・取・愛・受・触・六処・名色・識・行・無明)を経て、最後に<無明>に到達された教説である。
iii. 仏陀の教説は、<無明(=心所)>の把握から始まった。
e. 多種多様な<心所>の説
i. 仏陀の滅後、<心所>の分類分析も精細になった。
ii. 唯識は、<六位四十六の心所>をベースに、<六位五十一の心所>を論じた。
f. <六位五十一の心所>とは
i. <遍行〔へんぎょう〕>=触・作意・受・想・思
1) <こころ>と一緒に、いつでもどの識とも働く心作用で、五つある。
ii. <別境〔べつきょう〕>=欲・勝解・念・定・慧
1) 別々に働く。
2) 前五識・第六意識とのみ共働する。
3) ただし、えらび分ける<慧>だけは、末那識と共働する。
iii. <善>=信・慚・愧・無貪・無 ・無癡・精進・軽安・不放逸・行捨・不害
1) 普段から心がけるべき方向。
2) <無明>に対応する善き慧(自己と自我を分けて考える)の働きを独立させた<無癡>が加えられている。
iv. <煩悩>=貪・ ・癡・慢・疑・悪見
1) かき乱し、悩ませる働き。
v. <随煩悩>= ・恨・覆・悩・嫉・ ・ ・ ・害・憍・無慚・無愧・ ・惛沈・不信・懈怠・放逸・失念・散乱・不正知
1) <煩悩>が根元となってさらにはっきりした形で現われたもの。
2) 基本的に<煩悩>と同じ動き。
vi. <不定>=悔・眠・尋・伺
1) 善にも悪にも働く<心所>。
g. 自身を知れ
i. 唯識は、「自心を知る」ことである。
ii. ただ知っているだけでなく、自分自身の内にある<煩悩>そのものを取り除く志気が無ければいけない。
第六意識
i. ソクラテスは、自分がすべての悪徳を背負っているのを知っていた。
ii. 悪徳を転換させるこころ
1) 第六意識によってのみ、自分を変えることができる。
2) 第六意識は、大きく分けて<五倶〔ごく〕の意識>と<不倶〔ふく〕の意識>がある。
3) <五倶〔ごく〕の意識>とは、五識の感覚とともに働く第六意識のことである。
4) <五倶の意識>の二分類
(a) <五同縁〔ごどうえん〕の意識>…感覚を判断したり思考したりする「知覚」の働きである。(受)
(b) <不同縁〔ふどうえん〕の意識>…感覚から連想する働きである。(想念)
5) <不倶〔ふく〕の意識>とは、五識(感覚)とは関係なく動く意識のことである。
6) <不倶の意識>の二分類
(a) <五後の意識>…<不同縁の意識>がさらに広がった連想の一種のこと。
(b) <独頭〔どくず〕の意識>…完全に五識とは関係なく働く意識のこと。外界とのかかわり無く、独自に働く。三分類される。
(i) ①<独散の意識>…意識が独自の領域に動き、心ここにあらずの状態のこと。不安から働くと妄想に、愛から働くと想像力になる。
(ii) ②<夢中の意識>…夢のような状態のこと。
(iii) ③<定中の意識>…想像力や夢中の状態を超え、夢か現実かわからなくなってしまう無の状態のこと。不安から働くと幻覚も。
我欲から慈愛への転換
1) 末那識は仏陀にもある。それを<已転依〔いてんね〕の末那><出世の末那><無染汚〔むぜんま〕の末那>と呼ぶ。
2) <已転依>とは、悟った後ということである。
3) 仏陀も凡夫も、人間としての基本的な構造は同じであるが、悟った後の末那識は、真如と他のすべてのものが対象となる。
4) <真如>とは、「ありのままの姿」「永遠不変の真理」である。
5) 末那識が「真如を対象とする」ということは、
(a) 空なる本当の自己が見えてくること。
(b) それまでの自画像が虚像であり、幻想・妄想に過ぎなかったという気づき。
(c) 無我・空への覚醒と、虚像の自我の崩壊によって、自分のみに向けられていた<こころ>が広く拡大し、他の存在をも受容するようになること。
6) 末那識の内容が、反価値的な利己性のエネルギーから、愛に転換することを、<平等性智〔びょうどうしょうち〕>という。
v. 我執を投げ捨てよ
1) 末那識の内容の転換は、<我>の思量を<無我>へ変えることであり、虚像の自我への依存から、真実の自己への帰還ともいえる。
四煩悩と慧
1) 末那識とともに働く<心所>(心の作用)は、十八種類あり、特に大切なのが<四煩悩>と<慧>である。
2) 四煩悩とは
(a) 我癡〔がち〕
(i) 自分の本当の姿を知らないこと。(無明)
(ii) 知識が無いのではなく、当然わかるべきものの道理がわからない。
(iii) 暴流のような本当の自分が、作り上げられたゆがんだ姿態によって覆い隠されていることを知らず、ゆがんだ姿態を実体化して自分であると錯覚していること。
(iv) 自分の実相がわからないという消極的な一面。
(b) 我見〔がけん〕
(i) 自分の知っている範囲の姿が、自分のすべてだと思ってしまうこと。
(ii) 自我へのこだわり。自我があるから他人という観念にとらわれる。
(iii) 自我の幻想にこだわり、それを押し出してくる積極的な一面。
(c) 我慢〔がまん〕
(i) 自慢・高慢の気持ち。他人と自分を比較し、相手を侮る慢心である。
(ii) <慢>の心理を分析したものに<七慢>というのがある。
(iii) 七慢とは、①慢、②過慢、③慢過慢、④我慢、⑤増上慢、⑥卑慢、⑦邪慢である。
(iv) ①<慢>とは、無意識下にある「我」という観念により、相手に対抗してしまうことである。
(v) ②<過慢>とは、自分と対等または優れたものに対し、潜在的に自分のほうが良い、自分も同等にできると思うことである。
(vi) ③<慢過慢>とは、自分より優れたものに対して、自分のほうが良い、と段々高慢が高じてくることである。
(vii) ④<我慢>とは、自分にこだわり、自分のほうが相手より優れていると思い上がる気持ちのことである。(天狗)
(viii) ⑤<増上慢>とは、自分ではわかっていない境地を、証得したかのようにふるまうことである。
(ix) ⑥<卑慢>とは、自分よりはるかに優れた人に対し、「たいしたことは無い」と思う慢心である。
(x) ⑦<邪慢>とは、自分にまったく徳が無いのに徳があると思い込むことである。
(d) 我愛〔があい〕
(i) 自分のみを愛し続けること。他と調和しない。オンリーワンのうぬぼれ。
3) 自分の本当の姿を知らないから(我癡)、自分について誤った気持ちを持ち(我見)、高慢になったり(我慢)、うぬぼれ(我愛)を持ったりする。
4) 自慢話の底には、我癡・我見・我愛がひそんでおり、四煩悩は一体不離のようなもの。
5) <慧>とは
(a) 物事を選びわけ、はっきりと区別して決めること。
(b) 四煩悩に共通しているものは、自分と他とは別の存在であると分け、これこそが自分だと実体化し固定化する<慧>の働きである。
末那識 我執のこころ
1) 末那の語源は、インド語の「マナス」の音写で「思い量る」という意味である。
2) 末那識は、自分のことだけにこだわり思い量り、他を認めたがらない我執のこころ(=自我)である。
3) 末那識は、第六意識がなくなった無意識の状態(睡眠中、気を失っている)でも働いている。
4) 末那識は、個の人間として存在するための理由である。生きる力になる。
5) 第六識は善・悪・無記のいずれにも変化するが、末那識は常に<有覆無記>である。
6) 意識的に良いことをしていても、末那識の我執は常に働いている(常恒)。
末那識の要点
1) 我執は、私たちの視野や思考を偏ったものにする。
2) 我執は、潜在的に<こころ>のそこに働き続けている。
3) 我執は、真理や他の存在への暖かい自愛へと、視野広く転換することができる。
人間と仏性の関係
1) <仏性>とは、仏の性質、ありは仏への可能性である。
2) 仏性とは、無条件の愛である。
3) <仏性>の中身は、「永遠性」と「清浄性」の2面で捉えている。
4) 大乗仏教は、みんな仏への可能性を平等に持っている、と捉えている。
5) 仏性の無い人間を、無性有情〔むしょううじょう〕という。
6) 唯識では、<仏性>を①理仏性と②行仏性に分ける。
7) 理仏性とは
(a) 永遠、清浄の真理
(b) 人間の作為を離れた永遠不変の真理。<真如>、<無為法>ともいう。
8) 理仏性と私たちの関係①
(a) 現実の私たちの存在は無常であり、<有為法~ういほう~>という。
(b) 真理(無為法)を<性>、現実(有為法)を<相>と呼び、全く次元が異なるものである。
9) 理仏性と私たちの関係②
(a) 諸行無常、諸法無我の真理同様に、真理そのものである理仏性と私たちは、一体不二である。
(b) 理仏性は、もともと人間に備わっている。
10) 永遠の真理と人間の関係を、2面で捉えることを<非一非異>という。
(a) <非一>は、現実の存在≠真理ということ。
(b) <非異>は、真理は現実の中にあるということ。しかし、一体ではない。
11) 行仏性とは
(a) 人の<こころ>にある清らかな一面のこと。(仏になりたいと求める心)
(b) 人の意志、意識の違いに着眼しており、有為法である。
(c) 行仏性は、<無漏種子~むろしゅうじ~>と呼ばれることがおおい。
(i) 無漏とは、煩悩がないこと。
(ii) 無漏種子とは、阿頼耶識に蓄えられた清らかな力のこと。
(d) 阿頼耶識の中の無漏種子が引き出された人は、行仏性を持っている。
(e) 煩悩などに隠れて無漏種子が出ていない人は、<無性有情>(俗物)であり行仏性を持たない無仏性となる。
12) 真理・真如を<無為無漏>(死んでいる自分、死んで生きる)、仏道を志す清らかな生き方を<有為無漏>、煩悩のとりこになっている凡夫を<有為有漏>という。
13) 唯識がなぜ仏性の無い人間がいるというのか?
(a) 理仏性は誰しも持っているが、行仏性はその人の意識によって隠れてしまっているので、片方が欠けていることになるから。
14) 阿頼耶識の底に第九識がある。(すべてがつながっている純粋意識の部分)
15) 阿頼耶識をクリーンにすると、第九識が上がってくる。
16) 阿頼耶識にためた影の部分は、第九識が光にしてくれる。
17) 唯識とは、第八識をクリーンにする(問題解決する)方法である。
18) 地獄も極楽も願わず、ただ現在の自分を愛し続ける己があるのみ。
阿頼耶識は善か悪か
1) 人間の本性について、孟子は性善説を、筍子は性悪説を説いた。
2) 仏教での善悪は、我執・利己性・自己中心的などを中心にそれに添ったものを悪、それを超えたものを善と捉える。
3) 菩薩の心を清浄といい、凡夫の心を染汚〔ぜんま〕という。
4) 唯識では、善悪2分論ではなく「三性分別」としている。
5) <三性>とは、善(陽)、悪(陰)、無記(無)のことである。
6) <無記>とは、善でも悪でもない性質である。
7) <無記>はさらに<有覆〔うふく〕無記>と<無覆無記>に分類される。
8) 有覆〔うふく〕無記は、汚れのにおいのする無記(グレー)。
9) 無覆無記は、混じりけの無い純真無垢な無記。
10) 阿頼耶識は無覆無記である。
11) 一人ひとり異なった人格自体に、善悪は当てはまらない。
12) 過去と現在との関係…①異熟因→異熟果②同類因→等流果
13) ①異熟因→異熟果の関係
(a) 過去の因と現在の果とは、異なった性質である。
(b) 過去の業が善・悪であっても、現在の姿は無記である。(善因→無覆無記、悪因→無覆無記)
(c) 阿頼耶識において、この関係が成り立っている。
14) ②同類因→等流果の関係
(a) 過去の因と現在の果は、同じ性質である。
(b) (善因→善果、悪因→悪果)
(c) 種子において、この関係が成り立っている。
15) 生きていること自体は無覆無記であるが、その上に留められている種子は、善の種子は善の性質、悪の種子は悪の性質そのまま変わらない。
16) 過去に悪行を積み重ねてきた人間も、善行を積んできた人間も、現在は同じ無記である。
17) 阿頼耶識は、過去の業の総合の果体である。
18) 阿頼耶識は、過去と未来を収蔵した存在である。
19) 今現在という一点に、無限の過去と未来が圧縮されている。
20) 今この瞬間をどう生きるかが、自分の全存在であり全生涯となる。
唯識とは
i. 現実の自分を、立ち止まって凝視することから始まる。現実の自分とは、自分の根底(無)の部分を含む存在全体の働きを自覚することである。
ii. 欲望や性格を否定せず、人間すべてを受け入れて問う仏教である。
iii. 唯識は三蔵法師の説いたものである。三蔵法師は、弟子入りした慈恩大師の三事の欲を許した。
iv. 自己をどんどん新しいものに変化し、再創造させる<有>の仏教である。
g. 現実の人間存在は、不安と愛の両面を併せ持っている。自分の不安部分を見つめ受け入れてこそ、根底にある愛の部分にも気づくことができる。
h. 唯識学全体を明らかにするために、多くの議論が行われた。これは、唯識が締め付けや固定化した思考停止のない証拠である。
i. トラブルは自分の力で乗り越えなければいけない。その境遇に負けてしまうのは、自分の精神力の弱さである。
j. 赤ん坊が両足で歩くために何度も失敗を繰り返し乗り越えるように、人生とは、自分で立ち自分で歩くという気構えが根底になければならない。
k. 成唯識論とは、《こころ》である。こころを凝視し、空の自分に覚醒して、喜怒哀歓の自分を吟味する仏教。
l. 《こころ》の仕組みを理解すれば、自分を客観視ながらゆがみを軌道修正することができ、限りなく豊かな《こころ》にすることができる。
m. 《こころ》の仕組みを知ることで、新しい道を見出せる。
n. 悩み苦しむ理由がわかり、自分が何をどう苦しんでいるのかを発見すると、徐々にその苦悩から逃れることができる。
《こころ》は身近にあるものだが、そこに多少でも狂いがあったとき、真摯な毅然とした態度が必要である。
o. 《こころ》の中には、立ち上がるための力がある。自らの精神で克服していこうと努めれば、その力は強くなっていく。
p. 《こころ》も、身体同様に強く柔軟に鍛えなければならない。
q. 「すべての人の苦しみや悩みを救うことこそ、おのれの使命」 (相田みつを)