心王(八識三能変)表層と深層の絡み合い « AMRM Research Center

i. 人間の<こころ>は、表層と深層が重層している。

ii. <こころ>は、表層から深層、深層から表層への2方向から捉える。

1) 表層→深層は、外の情報を受け入れていく受動的な一面。

2) 深層→表層は、深層が表層を支え動かしているという一面。

iii. 第一眼識~第五身識は、五感と呼ばれる感覚作用であり、一括して「前五識」と呼ばれる。

iv. 第六意識は、推理・判断・想像・洞察などの知的要素や、情緒、情操などの感情、意思意欲などすべての精神機能を含む広範囲な作用の<こころ>である。

v. 第七末那識は、潜在的な意識下の利己性、自己中心的な思い。

vi. 第八阿頼耶識は、過去を秘匿する潜在的な自己の深層。

vii. 一つのものを見たり聞いたりするときも、今日までの自分が総合的に働いている。

viii. 八識の<識>は<こころ>のこと。

ix. 使い分けは、識=了別(物事を区別している)、意=思量(いろいろに思いはかる)、心=積集(過去を集積し保持している)である。

x. 第一眼識~第六意識までを、<識>と呼ぶ。

xi. 第七末那識は、いつも利己的に思いはかるので、<意>と呼ぶ。

xii. 第八阿頼耶識は、過去を溜め込んでいるので<心>と呼ぶ。

引用元: 心王(八識三能変)表層と深層の絡み合い « AMRM Research Center.

虚妄と汚染を知る唯識

唯識は、性欲とか食欲などという人間の本能や、個性や性格など、どろどろとしたものも全て含めて、人間としての全てを一切切り捨てないで、そこにどっしりと腰を据えて足を立てて、人間とは何だと、考えていく学問である。

人間が存在して行くには、決してきれい事や、体裁の良い言葉や取り繕いでごまかせるものではない。

それは、完全な我執に囚われているとなかなか見ることはできない自らの内面を、しっかりと立ち止まって振り返って、他人事ではなく自分がそうである、すなわち人間であることを凝視し、それとしっかりと向かい合っていくしかない。

人間の虚妄や、汚染を決して見過ごすことなく、ごまかすことの無い世界にこそ、本当の自分が見えてくる。

その現実のどろどろした自分が見えてくるとはどういうことか?

自分を汚れたものとして見えると言うことは、汚れていない自分が見えてきたときでもある。

これが唯識の仕組みの根幹的なものである。

汚れが汚れを知るためには、汚れていない自分を知る。

清らかな自分を知るためには、清らかでない自分を知る。

そして、清らかな自分を見つけたときに、全てが解決するのである。

自らの人間の汚染や虚妄に目を向けないでいる限りは、真に清らかな自分がどこにいるかすらわからない。

唯識の目指すところ

己こそ己の寄る辺 己をおきて
誰に拠る辺ぞ 良く整えし 己にこそ 
真得がたき寄る辺をぞ得ん(法句経一六〇)

自らを灯とし帰依処とせよという仏陀の言葉にもあるように、本来の自己を整えることは、己という人間の生きていく毎日のあたりまえのことであることはあたりまえにわかる。

唯識の目指すところは、人間は人間で有り続けながら、人間の内面の内面へと深く進みながら、現実的に存在する人間としての源の奥深くまでへの道を極め尽くし、人間を捨てずにして、人間を超越していこうというものである。

唯識における自分

今座ってパソコンのキーボードをたたいている自分。
その自分を自分として自覚しているのは誰か?

その自覚する自分を更に自分として自覚する深い源にいる自分である。
それでは、その深い源にいる自分は、キーボードをたたいている自分と別人格か?

別人格であるとしたら、その深い自分はなぜ、キーボードをたたかせているのか?

なぜ、その自覚する自分は否定されたとして怒るのか?

その否定された自分を怒らしているのは誰か?

その自覚する自分を深い誰かが、何らかの理由で、自覚する自分を怒らせ、否定されたと認識させているのである。

その誰かも自分である。唯識は、それらの自覚の全体の営みの全てを自分であり命であると考える。
その自分のことを知らずにして、人はただ表層の自覚する自分だけで、深くにある魂とのつながりもなくただ生きているだけである。

スイスの精神医学者ユングは、自分の体験するもの全ては心的現象で有り、人間の心という永遠の事実の上に私の基礎を気づくために、私は私という主観的存在の最も独自にして内奥の基礎を知り、これらを認識したいからと言って、精神医学の道へ進んだことは有名で、ユングの精神医学への道は、唯識への道と全く同じであることがわかる。

七慢

慢は、思い上がりの心。それを七つに分けたものが「七慢」

慢とは、他と比較しておごり高ぶること。
過慢とは、自分と同等の人に対し、自分の方が上だと思うこと。
慢過慢とは、自分より優れた者に対し、自分の方がもっと上だと思い誤ること。
増上慢とは、悟りの域に達していないのに、既に悟っているという自惚れの心。
我慢とは、自分に執着することから起こる慢心のこと。
卑慢とは、はるかに優れた者と比較し、自分は少ししか劣っていないと思うこと。
邪慢とは、間違った行いをしても、正しいことをしたと言い張ること。

我愛(があい)

自分だけを愛する、すなわちナルシストです。

これも我(が)に囚われている、末那識(まなしき)という我執(がしつ)の心であり、自分の今見える部分だけを愛して、他の見える部分も、自分の深くにある自分も受け入れることをしません。

四煩悩として、我癡、我見、我慢、我愛があります。

 

我慢(がまん)

自分の存在に固執するために、相手を非難し侮ることです。

自分以外のものを対象として比べ、自分自身を確かめようとするものです。

これも我(が)に囚われている、末那識(まなしき)という我執(がしつ)の心であり、今現在の自分の姿を見ることをせず、他と比べて自分を確認しようとし、真の自分を知らないことになります。
このように、「我慢」は、自分に執着することから起こる慢心を意味しています。
そのような状態はいうなれば、我を張っている状態です。例えば痛くても、それをぐっとこらえて外に表さないことは、不正直で有り、外に対して痛くないという優越を偽って、我を張ります。
そのように、強情な態度は人に弱みを見せまいと耐え忍ぶ姿に見えます。
それで最近は、堪え忍ぶことを我慢といわれるようになったものでありますが、このような堪え忍ぶことは我慢という煩悩です。
痛みに耐えることと、痛みを我慢することは違うということです。

四煩悩として、我癡、我見、我慢、我愛があります。

我見(がけん)

素晴らしい自分を、素晴らしくないと思い執着することです。

積極的に自分を知ろうとしない心です。

これも我(が)に囚われている、末那識(まなしき)という我執(がしつ)の心であり、今現在の自分の姿に囚われて、真の自分を知らないことになります。

四煩悩として、我癡、我見、我慢、我愛があります。

我癡は消極的であり、我見は積極的に自分を、今知っている自分として正当化したり、又は不正化したりするものです。

 

末那識 我執のこころ

1) 末那の語源は、インド語の「マナス」の音写で「思い量る」という意味である。

2) 末那識は、自分のことだけにこだわり思い量り、他を認めたがらない我執のこころ(=自我)である。
3) 末那識は、第六意識がなくなった無意識の状態(睡眠中、気を失っている)でも働いている。
4) 末那識は、個の人間として存在するための理由である。生きる力になる。
5) 第六識は善・悪・無記のいずれにも変化するが、末那識は常に<有覆無記>である。
6) 意識的に良いことをしていても、末那識の我執は常に働いている(常恒)。

末那識の要点

1) 我執は、私たちの視野や思考を偏ったものにする。
2) 我執は、潜在的に<こころ>のそこに働き続けている。
3) 我執は、真理や他の存在への暖かい自愛へと、視野広く転換することができる。

 

我癡(がち)

素晴らしい自分の本当の姿を知らないということです。

それも消極的に知ろうとしないことになります。

これも我(が)に囚われている、末那識(まなしき)という我執(がしつ)の心であり、今現在の自分の枠から外れることを恐れています。

四煩悩として、我癡、我見、我慢、我愛があります。