1) 阿羅耶識の転換は<持種依>の<転依>であり、自分が根底的に変わることである。
2) <転依>は、阿羅耶識の持つ二面(人間の深層や人格の全体像といった個人的内的面と、環境を決める外的面)が変わること。
3) 山も川も宇宙もみんな、わが<こころ>の中にある。
4) <阿羅耶識>が変わると<大円鏡智〔だいえんぎょうち〕になる。<識>が<智>になる(転識得智)。
(a) <智>は、あるがままに自己を自覚し親証する認識の構造。空なる自己が空なる自己にたちかえること。
5) <大円鏡智>とは、自分・環境・世界のあらゆるものをありのままに鮮明に映現する<こころ>という意味。
6) <阿羅耶識>は<種子>を保持している<こころ>なので、<種子依>という。
7) <転換本質〔てんかんほんぜつ〕>とは、「もの」が変わることである。
8) 「転換する」ということは、私は私以外のなにものでもないという自覚に覚醒すること。
修習位 転依〔てんね〕—自己を変える勉強
1) <転依>とは、変わること(依り所を転換する)をいう。
2) <依(依り所)>は、成唯識論では①持種依〔じしゅえ〕…阿羅耶識、②迷悟依〔めいごえ〕…真如の二つに分ける。
<修習位>の代表的な修行は、<十波羅蜜〔じっぱらみつ〕>の十項目である。
1) 布施〔ふせ〕…恵みを施し、互いに分かち合うこと。
(a) 菩薩の布施は「三輪清浄」である。布施の根元に利己生が超越されているため、施者・受者・施物に何のこだわりもない。
2) 持戒〔じかい〕…規律ある生活。自制心・自己抑制力。
3) 忍辱〔にんにく〕…耐えること。忍耐・我慢・辛抱。
4) 精進〔しょうじん〕…努力。
5) 禅定〔ぜんじょう〕…精神の統一。
6) 般若〔はんにゃ〕…根本智の修行。
7) 方便〔ほうべん〕…衆生済度の様々の方便をめぐらす。
8) 願〔がん〕…衆生済度の誓願。
9) 力〔りき〕…現実の是非・正邪を判断する力と、修行を継続する力を養う。
10) 智〔ち〕…後得智の修行。
v. <修習位>の修行は、真理によって高められ深められていく。
vi. 己を超えたものによって、己が清められていく。(無)
vii. 宗教的な言い方をすれば、如来に導かれての修行である。
viii. 煩悩浄化の図
1) <十波羅蜜>の修行により、煩悩が漸次力を失っていく。
2) 人間そのもの、生命そのものは煩悩でも善でもない。人間が生きていること自体に善悪はない。
3) <現行><種子><習気〔じっけ〕>は煩悩の状態の分類である。
(a) <現行>は、煩悩が実際に働いている状態。
(b) <種子>は、煩悩の潜勢態。
(c) <習気>は、種子の持つ雰囲気、残り香。
(d) <現行>を抑えることを<伏〔ぶく〕>、<種子>の無くなることを<断>、<習気>の消えることを<捨>という。
4) 修行の要は、自覚のできる<第六意識>である。
五位の修行 第四位 修習位〔しゅじゅうい〕
i. <修習位>とは、矛盾した自分に立ち向かう修行の段階である。
ii. <通達位>で親証した<空>の自覚を、繰り返し深めていく。
iii. <修習位>は、菩薩の<十地〔じゅうじ〕>の段階でもある。
1) 極喜地〔ごっきぢ〕…真如と一体の体験を初めてした時の無上の喜びの境位。
2) 離垢地〔りくぢ〕…汚れが離れる段階。
3) 発光地〔ほっこうぢ〕…智慧の光が輝き始める段階。
4) 焔慧地〔えんねぢ〕…智慧が焔となる段階。聖なるものに対してさえも、愛著を否定する。
5) 極難勝地〔ごくなんしょうぢ〕…<真如>を証する根本智と、世俗の智とが、真に綜合統一される段階。
6) 現前地〔げんぜんぢ〕…無分別の最勝の智慧が現前する。
7) 遠行地〔おんぎょうぢ〕…<現前地>で現前した最勝の無分別智が、更に極め尽くされる段階。
8) 不動地〔ふどうぢ〕…真如と一体となった生活が、何の努力もせず自然に続き、二度と変わることはない境地。
9) 善慧地〔ぜんねぢ〕…仏の教えの言葉や意義を自在に理解体得し、自由自在にそれを人に説くことが出来る段階。
10) 法雲地〔ほううんぢ〕…衆生の煩悩を滅除し、衆生の善根を生育させる。智慧の完成。
五位の修行 第三位 通達位〔つうだつい〕
i. <通達位>とは、唯識の真理が本当に証り、対象化が崩壊し、自分自身が<空>の真実になる段階である。→自分にかえること。
ii. 自分が自分を超え、自分でなくなる。自分でなくなりながら、しかも自分となる。
iii. <三界唯心><万法唯識>は、特に認識面にポットを当てた空の境説である。
iv. 自分に対して一番愚なのは、自分が見えず、自分を誇大視してそれを実体化して固執してしまう<末那識>である。
v. <真如>…そのまま、ありのまま、という意味を持つ→本当の自分
vi. 対象化しないで親証する働きを<根本無分別智>という。
vii. <無分別智>とは、真理を親証(自分の空なる真相が証る)することであり、見えなかった真実が見えてくる智慧の働きである。
viii. <無分別智>は五相を離れている。
1) 無作意を離れている。
(a) 修行によって獲得される物であるということ。
2) 尋有伺以上の境地を離れている
(a) 無尋唯伺地以上
3) 想受の滅した寂静を離れている。
4) 物質的性質を離れている。
5) 真実を計度する種々の相を離れている。
ix. 八識の中で<通達位>で変わるのは、<第六意識>と<第七末那識>である。
1) <第六意識>が<妙観察智〔みょうがんざつち〕>に、<第七末那識>が<平等性智〔びょうどうしょうち〕>になる。
2) <第六意識>が透徹してくると、<第七末那識>が真理を観、万物を平等に観る智慧が開けてくる。
x. <通達位>は、<見道><極喜地><初歓喜地>ともいう。
xi. <通達位>は、<資糧位><加行位>とは根本的に次元が違う。
1) <資糧位><加行位>は、自我中心的、対象的認識。
2) <通達位>は、<空なる自己>世間→出世間、有漏→無漏、凡夫→聖者への段階。
xii. <通達位>には、<根本智〔こんぽんち〕>と<後得智〔ごとくち〕>がある。
1) <根本智>は、真如と一体になる智慧である。
2) <後得智>は、現実を認識し自覚することである。
3) どちらも<無分別智>の二面である。
五位の修行 第二位 加行位〔かぎょうい〕
i. 修行とは、真実に向かって生きる、真実そのままに生きること。
ii. 「依法不依人(法によって人に依らざれ)」…個人の主義主観に依存することなく、普遍的な真理に依って生きよという仏陀の言葉。
iii. 言葉は一つの社会の約束事に過ぎない。
iv. 真の理解とは、頭でなく<こころ>の底からの実感、覚醒による。
v. 「人生は苦だ。苦の源は己の中にある。」仏陀の言葉。
vi. <加行位>とは、真の覚醒が始まり、その体得が深まっていく段階である。
五位の修行 第一位 資糧位〔しりょうい〕
i. 自分の向上を資〔たす〕けるあらゆる修行を積み重ねる段階。
ii. 修行は、大分類三、小分類三十の項目があり、それを<三階三十心>という。
iii. 大分類の<三階>とは、<十住><十行><十廻向〔じゅうえこう〕>である。
iv. 小分類の<三十心>とは、<三階>がそれぞれ十にわかれていることをいう。
v. 十住とは、<こころ>が仏道修行にきまって動かぬ十心である。(主に精神的な部分)
1) 発心住〔ほっしんじゅう〕…仏道への純粋な気持ちをおこす。(信心、精進心、念心、恵心、定心、施心、戒心、護心、願心、廻向心。)
(a) 知的探求を本筋とする唯識でも、根底には仏(本当の自分)への<信>がある。
(b) 仏を知り尽くしていたら、仏を求めることはない。また、全く知らなくても、求めることはない。
(c) <信>の心所での「心澄浄」というところで、「忍」は知的な認識、「楽」は情的な思慕、「欲」は意志であった。
2) 治地住〔ぢぢじゅう〕…身・語・意の行いを清浄にする。
3) 修行住〔しゅぎょうじゅう〕…唯識観を深め、六波羅蜜の修行を進める。
4) 生貴住〔しょうきじゅう〕…自分の全てが真理の中にあることを自覚する。
5) 方便住〔ほうべんじゅう〕…自分の善行を自分のためにせず人々のために生かそうとする。
6) 正心住〔しょうしんじゅう〕…毀誉褒貶〔きよほうへん〕に動かされない。
7) 不退住〔ふたいじゅう〕…後退しない。
8) 童真住〔どうしんじゅう〕…子どものような純粋な気持ちを持つ。
9) 法王子住〔ほうおうじじゅう〕…優れた智慧によって、将来法王になるような高邁な精神を持つ。
10) 灌頂住〔かんぢょうじゅう〕…王位につき得るくらいの勝徳を備える。
vi. <十行>とは、十の<行(行動、行為、実践)>のことである。(主に実践の部分)
vii. <十廻向>とは、十の<廻向(めぐらす)>のことである。自分に向ければ大いに得になり利益になるようなことを、他に廻すということ。
viii. 唯識の修行の一番根本は、「人間の認識のしくみ」、「存在の空無性」、「深層に潜在する利己性」などへの省察と自覚を深めていくことである。=<唯識観>=<解〔げ〕>
ix. <資糧位>は、<智慧行>と<福徳行>に分類される。
1) 「智目行足」とは、行動の方向は<智慧>によって導かれ、<智慧>は<行>によってのみ現実化し具体化するものであるということ。
2) <福徳行>とは、人をいたわり、許し、助ける修行のことである。
(a) <布施>…与えること。
(b) <精進>…<こころ>を込めて前進すること。
(c) <禅定>…ゆったりとした<こころ>の定まりのこと。
3) <智慧行>は、福徳行をするために見定める修行である。
x. <資糧位>を支える力のことを、<四勝力〔ししょうりき〕>という。
1) <因力〔いんりき〕>…自分の力のこと。
2) <善友力〔ぜんうりき〕>…真理への志が同じで、ただそれだけで結ばれている善友の力のこと。
3) <作意力〔さいりき〕>…自分の力を出し切ろうと思い立つこと。
4) <資糧力>…身体・言葉・こころの三業すべての善き行為のこと。
xi. <四勝力>によって存在や認識の省察を深め、2つの濁乱<煩悩障><所知障>が消えていく。
1) <煩悩障>…情的な迷乱
2) <所知障>…知的な迷乱
五位の修行
a. 人間が自己完成し、深みを増していくための課程を、五段階に分けて考えられているのが五位の修行である。
b. 五位とは、<資糧位><加行位><通達位><修習位><究竟位>である。
偏依円の三性
i. <三性>は、<依多起性><遍計所執性><円成実性>のことをいう。
ii. <偏依円の三性>は、<三性>の頭文字をとって名づけられており、唯識教義の重要なひとつである。
iii. <依多起性〔えたきしょう〕>とは
1) 「他に依って起こる性」という意味である。
2) 存在の面から捉えると、私たちは様々な諸条件によって形成されており、空しく、はかないものであるということ。
「諸法無我」…私たちが健康であるのも、私が私であるのも、様々な条件の相互のかかわりのうえにあるに過ぎない。
3) 認識の面から捉えると、私たちは自分の言葉や観念イメージ等を投影して対象を見るということ。条件の変化によって変わる。(例:幼児が書いた父母の似顔絵は、鼻の穴が強調されている。これは、いつも親を下から見上げているからである。)
4) <名言>の持つ役割
(a) 頭の中にある観念が認識成立の重要な要因になっている。その観念を<名言〔みょうごん〕>という。
(b) <名言>も、主観の投影と同じである。
(c) 言葉(名言)には、認識が制約され固定化され、思考、思索も拘束するといマイナス面もある。
(d) <名言>が先行すると、言葉が独立性を帯びて、柔軟で自由な認識が抑えられてしまう。
(e) 世界中の戦争で必ず、「正義の戦い」と主張し、その名の下に勝敗を裁いてきた。これこそ<名言>の恐ろしさである。
iv. <遍計所執性〔へんげしょしゅうしょう〕>とは
1) 「遍〔あまね〕き計〔はから〕いに執着される性〔もの〕」という意味である。
2) 感覚の対象も、思考の対象も、無条件に信じていること。
3) いろいろな条件の組み合わせである存在や認識の実態を、固定化し実体化する働きのこと。
4) 対象を<法>で表わし、<法>を無条件に是認することを<法執〔ほっしゅう〕>という。(相分を実在と信じてしまうこと)
5) 自分で作り上げたもの(相分)に拘束されてしまうことを、<相縛>という。
6) 自分を中心とした計らいが、私たちの思考や認識に浸透している<末那識>が働くから、<遍計所執性>が出現する。
7) <遍計所執性>は、自己自身の実態の省察を困難にする。
8) <遍計所執性>は、私たちが勝手に描いた虚像の世界であり、それを<体性都無〔たいしょうとむ〕とか<情有理無〔じょううりむ〕とかいう。
v. <円成実性〔えんじょうじっしょう〕とは
1) 「円」は周遍の義といわれ、普遍性を表わし、「成」は成就の義で、常住を表わし、「実」はその真実性を表わす。
2) 普遍的で永遠に真実なものという意味。<真如><無為法>
3) <遍計所執性>が迷いの人間の実態ならば、<円成実性>は悟りの自己である。
vi. <三性>相互の関係
1) <依多起性>の示す心理は、どこにも固定的絶対的な物はないというものだ。しかし人間は、その存在や認識の空無性に耐えられないので、意識の中に作り上げられた物に依存しようとするのである。
2) <遍計所執性>は、真実の信念が持つ強烈な頑固さと柔軟な精神さえも、停滞化し、凝固化し、固定化してしまう。
3) <依多起性>と<遍計所執性>は、共に空無である。<円成実性>は、その存在と認識の空無性の真理である。
4) <三性>の相互の関係は、一体(不離・非異)でもなく別体(不即・非一)でもない。(=不即不離・非異非一)
5) 物事の断定は、その断定する人間の判断力に依存しており、その人の主観である。
6) 「智慧」の「智」は決断、「慧」は簡択(えらびわける)ことである。
7) 仏教によっては、自己が本来的に仏であることを強調するあまり、自分の相対有限性を忘失してしまうものがあるが、人間はあくまで人間であり超人ではない。
8) 「<遍計所執性>=<依多起性>」の自分と「<円成実性>=<依多起性>」の自分は全く異質の自分である。
9) 「眼横鼻直〔がんのうびちょく〕」=道元禅師が中国での四年間の修行で得たこと…眼は横に、鼻は縦にというありのままの自分が、ありのままに分かったことを表した言葉。
10) 自分の都合の良いように合わせて見たものが<遍計所執性>の自己であり、その真相に気がつくのが<円成実性>の自己である。
11) 「<遍計所執性>=<依多起性>」から「<円成実性>=<依多起性>」の自己になったとき、眼横鼻直の真理の分かる真実の自己になる。
12) 今ここに生きている現実にこそ、人生の奥義がある。
13) 虚妄なる分別(遍計所執性)の中に空性(円成実性)があり、空性の中に虚妄なる分別がある。『中辺分別論』より
14) 眼横鼻直のありのままの自己の中に、「仏法」=真理がある。
15) <円成実性>=永遠の真理を証見する(信じる、理解する、自覚する)ことで初めて<依多起性>が見えてくる。
16) 自分を反省し、自分への自覚を深めるという道でしか、自分を超える方法はない。
17) 仏を呼ぶ凡夫は、すでに仏に出会っている。=行仏性
四分の教え
a. <四分〔しぶん〕>とは、
i. <識>の四つの側面である。<心王>と、実の三十二の<心所>のすべてに<四分>がある。
ii. <相分〔そうぶん〕><見分〔けんぶん〕><自証分〔じしょうぶん〕><証自証分〔しょうじしょうぶん〕>のことである。
1) <相分>とは、認識の対象のことである。(客体)
2) <見分>とは、<相分>を直接認識することである。(主観)
3) <自証分>とは、<見分>を自覚する働きの一面である。<見分>を対象としてみている自分である。(自我)
4) <証自証分>とは、<自証分>を自覚する一面である。(本来の自分)
5) 例:「花を見る」…①花=相分、②花を見ている自分=見分、③花を見ている自分を自覚している自分=自証分、④自覚している自分をさらに自覚する自分=証自証分
6) 例:「店」…①商品の値段=相分、②店員=見分、③店長=自証分、④社長=証自証分(本来の自分)
iii. 自分が自分と対話し、自分が自分を自覚し、さとるという構造がある。
iv. 「成唯識論」では、認識は<四分>で完結するという。なぜなら、<自証分>と<証自証分>は互いに自覚しあうからである。(弁証法的内観法)
v. <相分>と<自証分>とのつながり
1) 人とものとはつながっている。
2) <相分>は、<自証分>が<相分>という形になって現れたものである。
3) <相分>は、外に実在するのではなく、自分の<こころ>の投影である。
4) 自分の作り上げた<相分>に縛られることを<相縛>という。
5) 相分は<影像〔ようぞう〕相分>と<本質〔ほんぜつ〕相分>がある。
6) 自分の<こころ>のありようで、<相分>は美しくも清くも豊かにもなる。