唯識は、性欲とか食欲などという人間の本能や、個性や性格など、どろどろとしたものも全て含めて、人間としての全てを一切切り捨てないで、そこにどっしりと腰を据えて足を立てて、人間とは何だと、考えていく学問である。
人間が存在して行くには、決してきれい事や、体裁の良い言葉や取り繕いでごまかせるものではない。
それは、完全な我執に囚われているとなかなか見ることはできない自らの内面を、しっかりと立ち止まって振り返って、他人事ではなく自分がそうである、すなわち人間であることを凝視し、それとしっかりと向かい合っていくしかない。
人間の虚妄や、汚染を決して見過ごすことなく、ごまかすことの無い世界にこそ、本当の自分が見えてくる。
その現実のどろどろした自分が見えてくるとはどういうことか?
自分を汚れたものとして見えると言うことは、汚れていない自分が見えてきたときでもある。
これが唯識の仕組みの根幹的なものである。
汚れが汚れを知るためには、汚れていない自分を知る。
清らかな自分を知るためには、清らかでない自分を知る。
そして、清らかな自分を見つけたときに、全てが解決するのである。
自らの人間の汚染や虚妄に目を向けないでいる限りは、真に清らかな自分がどこにいるかすらわからない。