唯識とはなんだ!
唯識とは、仏教を学ぶ人たちの間で、「私は誰か?」から始まった人間学であり、世界を広げていき、人間とは何か?を説いた心理学ともいえます。
唯識学は、仏教のように信じることより、まず理解することを教えるものです。
ですから唯識学会では、誰かの論文について論評したり、理論の是非や、学術的研究を行うものではありません。
それよりも、そのような理論をテーマにして、純粋に誰でもが、唯識や仏教のことを一切知らないものでも、子供であっても参加して、ただ単純に「私は誰か?」、「人間とは何か?」を学んでいく会です。
これが唯識学会の大きな特徴です。唯識の理論を使って考察したり、修行を進めていくのですが、唯識の言葉を使っても丁寧に誰でもがわかる言葉に置き換えて説明します。
又、誰の理論が優れているとか、優れていないとか一切関係がありません。
今ここに起こっている日常的な悩みや、苦しみを唯識を使って解決していこうという学びの会です。
ですから、様々な事象、すなわちニュースや世間の事柄、物理学や数学、他の宗教や哲学、思想や心理学、生理学や医学などをテーマにしても構いません。
その中で通じ合うところ(普遍性と言います)を見つけて解決していきます。
このように、唯識は、今の現実の自分を、立ち止まって凝視することから始めるのです。
現実の自分とは、自分の根底的な部分、無意識の部分を含む、自分という存在の全体の働きを、現実的に自覚することです。
自分は、一体無意識に、又、意識的に一体何をしようとしているのか?一体それはなぜなのか?何なのかということを、唯識はひもといていきます。
スイスの精神医学者ユングは、「自分の体験するものはすべて心的現象にある。人間の心という永遠の事実の上に自分の基礎を築くために、自分という主観的存 在(本当の無の自分)の、もっと独自にして内奥の基礎を知り、これを認識したい」という思いから、精神医学を始めました。このように精神医学とも深い関係があります。
又唯識は、 仏陀のいう「自らを灯とし帰依処とせよ」とは、本来の自分を見つめ、それをよりどころとしなさい、という本当の自分を見つけ出して、それを拠り所にするための素晴らしい修行の一つともなります。
唯識学会では、唯識の理論のとおり、欲望や性格を否定せず、人間すべてを受け入れて考察していきます。
唯識は三蔵法師の説いたもので、三蔵法師は、弟子入りした慈恩大師の三事の欲を許したという逸話も残っています。これが唯識なのです。
唯識は自己をどんどん新しいものに変化し、再創造させていく<有>の思想に立っています。
現実の人間の存在は、不安と愛の両面を併せ持っていますが、自分の不安部分を見つめ受け入れてこそ、根底にある愛の部分にも気づくことができるのです。
唯識学全体を明らかにするために、多くの議論が行われたましたが、これは、唯識が締め付けや固定化した思考停止のない証拠でもあるのです。しかし、人の議論をどうこういうよりも、まず自分が深く内観をして弁証(自問自答みたいなものです)していくことが大切です。その修行の方法も唯識はしっかりと説明しています。
人生のトラブルは自分の力で乗り越えなければいけません。その境遇に負けてしまうのは、人生においてはとてもつらいところです。
赤ん坊が両足で歩くために何度も失敗を繰り返し乗り越えるように、人生とは、自分で立ち自分で歩くという気構えが根底にあることを思い出すことが大切です。
又、成唯識論とはより深く人を超えて、深い広い《こころ》を観察していくものです。《こころ》を凝視し、空(くう=仏教の概念です。)の自分に覚醒して、喜怒哀歓の自分を吟味していく理論です。
《こころ》の仕組みを理解すれば、自分を客観視ながらゆがみを軌道修正することができ、限りなく豊かな《こころ》にすることができるはずです。
《こころ》の仕組みを知ることで、新しい道を見い出せるはずです。
そして、悩み苦しむ理由がわかり、自分が何をどう苦しんでいるのかを発見すると、徐々にその苦悩から逃れることができるはずです。
《こころ》は身近にあるものだが、そこに多少でも狂いがあったとき、真摯な毅然とした態度でそれに臨むことができるはずです。
《こころ》の中には、立ち上がるための力があることを発見し、自らの精神で克服していこうと努めれば、その力は強くなっていくはずです。
《こころ》も、身体同様に強く柔軟に鍛えることができるはずです。
唯識学会は、このように唯識を学んでいく会です。皆さんも自由にユーザー登録していただきご参加ください。